編集ラミ(l’ami)-自費出版

あれ これ



 小学生の頃。足長蜂の巣を探して、幼虫を巣から取り出しては、フライパンで油で炒めて食べました。ある日、足長蜂に襲撃されました。夏のことで、頭を10か所ほど刺されたうえに、ランニングの中に入り込んだ蜂は、皮膚も刺しました。その時、婆ちゃんが歯ックソを塗ってくれました。

 ウケ(細い竹で作られている魚とり用の漁具)で魚を捕りました。この中にアメリカザリガニが結構はいりました。こいつの尾を食べました。大人になって寿司屋で寿司を食べるようになったとき、私は、しばらくの間、エビはアメリカザリガニだと思っていました。

 大学に通うようになり、池袋の地下で飲んだバナナジュースは、カルチャーショックでした。東京には、こんなにもうまい飲み物があったんだと。 

 学生時代、学生運動に入れなかった私は、総理府のビザを取って、返還前の沖縄に行きました。毒ガス輸送が話題になっていた頃です。野宿のようなことをしながら、南部戦跡を1週間かけて歩きまわりました。この時ヤモリを初めて見ました。ヤモリと言うのは南国にいるとばかり思っていましたが、熊谷にもいることがわかり、感動しました。熊谷で1度、深谷で1度、見ています。

 カニ族。リュックを背負って、日本中を放浪。アマチュア無線の免許も持っていたので、無線機を携帯していました。旅先で多くの友人を得ました。そういえば、一人で、カメラを背負って山にも登っていました。夏の北アルプスを一人で縦走したことがあります。前穂は危ないと言われ、行かずに下山しました。40年も前のことなのに、前穂に対して私は今だに劣等感を持っています。

 大学を卒業してポプラ社という出版社に勤めました。ある評論家の方が編集を降りると言いだした時がありました。これをとめるために、夜中まで家を見張っていました。雨が降ってきても帰ってこないので、背広のまま、民家の横に置いてあったトタンの間に挟まって寝ました。朝、そのまま出版社に出勤しました。

 編集と言う仕事よりも、外国に行きたくなりました。結婚しようと約束した彼女を日本に残し、船でフランスに行き、ナンテール大学で哲学を学びました。1年目は単位を全て落として留年。2年目からは進級できました。

 帰国後、出版社に務めましたが、作家の印税支払計画書を作ったのに、社長が実践しないので、見切りをつけ、1年で退職しました。次に広告代理店に勤めました。産経新聞、毎日新聞、埼玉新聞などに広告の記事を書いていました。ここも社長の人間性が嫌になり退職。熊谷に戻り、地元の塾で英語と理科を教えていました。

 フランスで一緒に剣道をしていたラシッドが我が家に半年ほど滞在したことがありました。彼女と結婚するかを迷っていた頃のラシッド。夜中にフランスまで国際電話をかけて男泣きしていたことがありました。結局はその頃の彼女と結婚して、今では3人の子供がいます。

 友人のすすめで、60歳前ごろから川柳誌「ざんまい」、エッセイ集「燦」に参加させて頂くようになりました。

 塾を60歳になったのを機に退職。編集l’ami(ラミ)の事務所を開設。本作りを通して、お世話になってきた社会への恩返しができればと思います。

 今は、本業の編集l’ami(ラミ)の仕事、農業、勤めていた塾での講師、小説の創作などに追われています。

 川柳誌「ざんまい」とエッセイ集「燦」は、還暦を過ぎた私を、鞭を打って励ましてくれています。勉強して学ぶことがあります。幸せなことです。